実績紹介 はありません。
実績紹介 はありません。
初代社長の勝宮元は1946年昭和21年8月富士美興業株式会社を設立しましたが、この名前に関するエピソードを紹介させてください。
「当時勝は帝国蚕糸株式会社(以下帝蚕)の一室をかりて、生糸検査所(以下生検)と帝蚕の電気部門をみながら横浜エレベータ商会の仕事に精を出していた。
昭和20年8月31日、生検になだれ込んできた進駐軍部隊は、建物内部を点検しているうち電気関係だけは全部封印されていて使用できないことを発見した。責任者はだれかという事で帝蚕の電気室にいた勝が呼び出され、キイ(鍵)をよこせと言われた。勝は答えた。「キイは渡せません。電気を通せ、エレベーターを動かせというなら、それは私がやります。オームの法則はどこでも同じです。」言い終わらぬうちに米兵の鉄拳がとんできた。たちまち勝の身体はその場に殴り倒され、足蹴りにされた。MP(Military Police)が飛んできて、争いを止めた。でなければ激昂した兵士たちによって勝は蹴り殺されていたかもしれない。MPの取り調べに対しても、勝の返答は同じであった。中年のMPが、笑いながらつぶやいた。「どこにも同じような奴はいる。まるで故郷(くに)のおじきにそっくりだ」キイを持っていたいというなら、お前がこれから電気の仕事を全部受け持て。それならいいだろう。いまはつまらんことでやり合っていられないのだ。MPはそういって、勝の肩を叩いた。
勝はこのことを誰にもしゃべらなかった。翌日から家をでるたびに、きょうは処罰をくうか、きょうはキイをとりあげられるかと、心休まる日はなかった。しかし、この事件はそれきりで終わってしまい、生検の電気部門に関する限り、勝は接収部隊からすべてをまかされた形になっていた。
勝が富士美興業株式会社と命名したのは、この事件で自分が不死身(ふじみ)に終わったことを記念する気持ちからであった。」
(以上白土秀次著勝宮元伝より抜粋)
このエピソードから初代社長の勝宮元がいかに電気技師としての自分の仕事に責任とプライドを持っていたかを伺い知ることが出来ます。それこそ命を懸けて自分の職務を全うしようとしたのです。仕事に対して責任とプライドを持つということが、横浜エレベータの原点です。
そして、先の実績により声をかけられたのは、スイスの時計メーカー、スウォッチ グループの海外第1号となる東京、銀座の自社ビル 「ニコラス・G・ハイエック センター」。
壁面に緑を配したアトリウム空間は、“公園を横にした”よう。エレベーターの存在感を消し、さらにはショールームとしての機能を付加するというオーダーでした。
ここで新たな挑戦となったのは「円形ドア」。以前の四角いエレベーターではなく、円形・楕円形というオーダーに、設計部門と製造部門は頭を悩ませました。
また、空調管理のできない屋外のエレベーターであることから、各エレベーターごとに空調を完備するなど、美観だけでなく機能上も特殊なものとならざるを得ませんでした。
意匠と機構のせめぎあい、短い工期。その中で各部門は協力し、問題を一つ一つ克服しながら解決していきました。
完成に至るまで2年の歳月を費やし、業界でも話題となったこのエレベーターは、横浜港大さん橋国際客船ターミナルに続いて「エレベーターワールド」のコンテストで第1位を受賞。
横浜エレベータは、試作と検証に重きを置き、高品質なエレベーターの追求を続けています。
エレベーター、という装置のイメージ。それは仕切られた閉鎖的な空間を上下する“移動手段”の一つであり、階数表示を眺めながら到着を待つ乗り物であったと思います。
横浜エレベータが挑戦したのは、“エレベーターらしからぬエレベーター”でした。通常あるはずのガイドレールを廃し、油圧ジャッキで持ち上げるという発想の転換によって、この「昇降路なし」「ガイドレールなし」というエレベーターは実現しました。過去に例のない、まさに日本初の技術です。
耐震性をはじめ日本の厳しい建築規制をクリアしながら、洗練された美しさで建物の存在感を一層際立てるエレベーター、それが、テレスコフレーム方式エレベーターなのです。
戦後、GHQより日本全国のGHQ施設のエレベーターの復旧工事と性能検査を受託することにより事業を発展させ、今日の基礎を固めた。
きっかけは、横浜港大さん橋国際客船ターミナルでした。
国際コンペにより選ばれたそのデザインは、「柱のない建物」。その柱のない駐車場から2階へ昇るエレベーターなのだからと、“柱のないエレベーター”というオーダーに対し、どのようにしたらそれが実現できるのか頭を悩ませました。エレベーターにつきもののガイドレールが美観の邪魔になるというわけです。
できるかどうかではなく、どうすればできるのかを考えること。
失敗を恐れず、他社のできないことをやってみせる情熱。
それが横浜エレベータの歴史の中で自然に培われた社風であり、体質でした。
そして、「はしご車の仕組みが使えないだろうか」。そのひらめきが、この「テレスコ式エレベーター」の第一歩となったのです。
2004年度のエレベーター新設部門コンテストでは、横浜エレベータが横浜港国際客船ターミナルに納入した「昇降路・ガイドレールなしエレベーター」が第1位に選出されました。この第1位受賞は、日本の非常に厳しいエレベーターに関する規制を乗り越え、過去に例のない昇降路もガイドレールもないエレベーターを製作・施工した横浜エレベータの独創性ならびに高い技術力が、世界的に評価された結果と考えております。
業界誌「エレベーターワールド」のコンテストで第1位を受賞した横浜港大さん橋国際客船ターミナルへの納入をきっかけに、様々なデザイン・用途のエレベーターについての相談が多く持ち込まれました。
そして次に携わった金沢21世紀美術館は、建物のコンセプトに沿い、開放感あふれるエレベーターを求めたSANAA 妹島氏からのオファー。
さらに美観へのこだわりを追求し、釣りざおにヒントを得て油圧ジャッキを白いフレームの中へ隠す形を提案し、美術館の意匠にマッチしたアート感あふれるエレベーターへとさらなる進化を遂げました。
2009年度のエレベーター新設部門コンテストにて、横浜エレベータがニコラス・G・ハイエック センターに納入した「昇降路・ガイドレールなしエレベーター」が他を押さえて第1位に選出されました。 2004年に同じく第1位を受賞した横浜港大さん橋国際客船ターミナルのエレベーターではエレベーターの下を4本の支柱で支えていましたが、今回その存在をなくしたこと、そして円形のドアが新たなチャレンジとなりました。さらに芸術性の高いテレスコ型のフレームを採用することで、“移動手段としてのエレベーター”以上の存在感を担っています。